>|| ||<

江東かわかみ君のブログ

コロナ禍暇つぶしの日々日記

海外空港で思い出話・・・数々

昔々、欧米出張が多かった。そこで空港にまつわる思い出を描き残す。(順不同)

 

 

・・・空港で思い出話①
🇩🇪 ミュンヘン空港。始めての欧州へ出張は、🇨🇭 チューリッヒでの3週間、総勢4名のでの技術講習会。土日の休み、🇩🇪 ミュンヘンへ空路観光。4名は、ラフ(過ぎる)な姿で搭乗。ミュンヘン空港着陸してエプロンへ向かう「地上走り」の時、脇に「戦車」が併走。それも機関銃を構えて。エプロン着くと、預け荷物がタラップ下に並べられるに、時間がかかる。タラップ階段降りると、各自が荷物を引き取る。その脇にも監視する銃を構える兵士❓入国審査終わると、4人は、別室に指示される。🇩🇪 言葉も分からず個室に入ると、壁にホールドアップ姿され全身くまなく検査。勿論、無事に入国。
当時、日本赤軍が欧州各地でテロする時代で、テロ集団を疑われた入国だった。
 
・・・空港で思い出話②
🇵🇰 パキスタンカラチ空港。当地三度目の訪問は単独。滞在終え南廻り便のカラチ発は、深夜時間帯。時間まで技術部長家で禁止されてる「酒」を頂き大食事会。言葉がまったく通じない現地運転手、早めに空港へ送ってもらう。降ろされた搭乗開始をロビーで待つが、日本行きのクルクル看板に切り替わらないも酔いに任せ時が過ぎる。あれっ搭乗時刻がとっくに過ぎてる。腰掛けてるロビーは「Domestic」と書かれていた。大型カバン抱えて「International」への駆け足は記憶から消えない。(笑)
 
・・・空港で思い出話③
🇨🇳 大連空港。駐在当時、取引先公司の都合で「日本円(闇)」支払いだった。海外送金も出来ず、年に数度の🇯🇵 帰国時の帰りに「現金」を運ぶ。時には、友人にも依頼。🇯🇵 空港出国時「申請」すれば外為法違反にはならない。🇨🇳 入国時に「申請」が必要なる。ほとんど「OK」と承認されるが、時に「別室」案内もある。数百万円の束を、指舐め舐め数える時間。外で待つ友人から電話「何があったの❓」その「外国入金許可証」があると、🇨🇳 出国時に「現金」持ち出すに使える。それが売れる❓と聞いたが、桁が違ってた。哈哈哈❗
 
・・・空港で思い出話④
🇮🇹 マルコ・ポーロ(Venice)空港。何度も訪れたベネチア郊外の公司。何度目だったか、現地通貨を持たずに 🇯🇵 空港で搭乗。空港着くもタクシー代金が無い。現地公司社員との待ち合わせレストラン(当時、労働組合活動で空港迎えが出来ぬと事前通告)へ向かうが、まだ会合してるか不安が募る。目的地レストランに到着するが、運転手に現金が無く・・・もらって来る・・・待ってて・・・言葉が通じず・・・大汗かいた(笑)
 
・・・空港で思い出話⑤
🇰🇷 金浦空港。昔は、大韓航空チケットが格安だった、ソウル始発 ⇒ 香港 ⇒ ソウル ⇒ 東京 ⇒ ソウル のチケット買う時代。ソウル滞在終えて金浦空港へ向かう。ホテルチェックアウトで冷蔵庫のコーラが無い❓飲んでない❓ ♨会長が揉めるも収まらない。香港搭乗時刻が迫る。タクシー乗り込み急がせる。空港着くと大韓航空カウンターでチェックインするが、搭乗時間が・・・VIP扱いで搭乗口まで走らされた記憶。
 
・・・空港で思い出話⑥
🇭🇰 空港。♨会長一緒の最初パキスタン訪問、終わって香港経由の南回り便、普段なら乗れない日本航空ビジネスクラスチケット。現地搭乗日は、12月31日。香港着いたら、会長曰く、ここで一泊するか❓ と・・・JAL係員にその旨を告げ空港を出て大晦日を楽しんだ。翌日、元旦便、ビジネスクラスの食事は「おせち料理」成田空港着いて会長自宅へ電話で帰国報告、奥方が偉い剣幕でお怒り❓前日、到着した預け荷物の引取が無く別室で預かってる❓その別室へ向かって荷物を引き取った。それが現地で贈られたパキスタンカーペット5枚もあるから、とんでもなく大きな荷物。哈哈哈・・・そうそう、この時、「スチュワーデス」と意気投合、インド❓バングラディッシュ❓上空で操縦席を見学できた。んです。会長も大喜び。
 
・・・空港で思い出話⑦
🇨🇳 大連空港。イチバン数の多い海外空港。とある日の出国(🇯🇵 帰国)手続きの保安検査場。金属探知機ゲートを潜ると、お立ち台に乗せられ、再度、金属検査がある。正面向いて、次に背を向け、最後に脚(踵)を上げるのだが、そこに立ち上がった🇯🇵 からの団体観光客のおじさん。「脚上げて・・・」云われると・・・片足上げたら両手も万歳しもうた。直後、よろけてお立ち台からコケる。姿、笑いが止まらなかった。
 
・・・空港で思い出話⑧
🇯🇵 成田空港。大連への便は、ANA便が一番多かった。ほぼ全てマイレージで搭乗。そんなある便、搭乗口で待ってると、アナウンスで呼ばれた🇯🇵 から大連へ向かう留学生❓女性。どうやら預けカバンに何か許されないモノが入っていたようだ。私も数度、カバン内のウエアポケットにライターが入っていて、呼ばれて経験ある。その女学生、呼ばれて何かと不安そうにカウンターへ出向く。そこに預けたデッカイ旅行カバンが置かれてる。何やら説明を受けてる光景の中、登場したのはなんと・・・石油ストーブ・・・それも旅行用でなく、普通の石油ストーブ、もちろん石油は入ってないだろうが、禁止。彼女、泣きべそ・・・冬の大連は、寒いからと、心配する母親が持たせたのだろう・・・きっと。
 
・・・空港で思い出話⑨
🇯🇵 成田空港。イチバン数が多かったANA便。登場が終わって着席して出発を待ってると、最後に登場してくる「🇨🇳 強制送還」の面々。搭乗ドアまで、入国管理の係員に付き添われる。かれらが着席する座席は、最後尾。皆、無言、下を向いたまま最後尾へ歩く。何度も目撃している。
 
 
・・・空港で思い出話⑩
🇮🇹 ローマ空港。仕事で数多く訪ねた欧州だけど、とある個人旅の時、🇯🇵  ⇒ 🇮🇹  ⇒ 🇦🇪🇮🇹 ⇒  🇳🇱 ⇒ 🇯🇵 (日本 ⇒ イタリア ⇒ アラブ首長国連邦 ⇒ イタリア ⇒ オランダ ⇒ 日本)そのローマ空港に戻る便、機内に邦人は、ほぼゼロ。空港上空を旋回するも着陸の兆しがない。機内アナウンスが何度も流れるが、普段、日常的なアナウンスと少し違うが、理解できない。結構な時間旋回した後、着陸した。その空港駐機スペースには、想像超える機体が停まって大混乱。その日は、大きな労働組合ストライキ。完全にパニック状態。ドアを開け放したままタラップも来ない。相当の時間、待たされタラップで地上に降りターミナルビルへ徒歩で向かう。入国審査辺りもパニックでほぼフリーパス状態。乗り継ぎでミラノへ向かう予定だが、預けバッグはそうなるの❓そんな不安よりターミナル内に大勢の人達が右往左往する光景に言葉も出ず。予定のミラノ便カウンター前にも大勢の人だかり。館内アナウンスも何を喋ってるのか❓パニック喧噪でほぼ聞こえず。ひたすらカウンター前の人混みに混じって・・・待つ。運航が開始されたようで次発便の搭乗者氏名を読み上げるが、イタリア語(英語)聞き取れない。人混みの中の人が「あんた日本人❓、今、呼ばれたようだよ❓」とアドバイス。無事に夜の便に乗ることができた。しかし、当時、携帯電話など無いから、ミラノ空港で私の到着を待つ邦人仲間と連絡が取れず仕舞い。ミラノ空港到着するも預けカバンが流れてこない。時はすでに深夜。止むえず予約してたホテルへタクシーで向かう。そこに迎えの邦人夫婦が私を待っていてくれた。カバンは、翌日、空港でピックアップできた。
 
 
・・・空港で思い出話⑪
🇮🇹 ミラノ空港。前の続き、ミラノからオランダアムス空港へ向かうが、チェックインカウンターでハプニング。当時の航空券は統一されたチケット冊子になってる。大事に持ち歩くのだが、予約して発行された航空券の氏名、日付、便名を真っ先に確認しなくてなならぬが、その時、してなかった。私の名前「TATSUYA KAMAKAMI」と一文字が間違っていて搭乗受付出来ぬと揉めた。すでに東京からローマ、アラブ、ローマ、ミラノとそのチケットで四度も搭乗。言葉も上手に通じないが、世に云う「オリエンタルスマイル」で切り抜けた(笑)
 
 
・・・空港で思い出話⑫
🇨🇳 南京空港。🇨🇳 駐在始まって(多分❓)最初の国内旅行で🇨🇳 のハワイ「海南島」へ旅立った。確か大連市内旅行社で購入した格安団体ツアー。確かに、島内の何処を観るもハワイに似た雰囲気があるが、違い点がある。すべてが「汚い」のだ。行きは直行便と記憶するが、帰り便は、南京経由。海南島の滞在、島中暑いのである。部屋に戻れば冷房ガンガン(香港も同じ)ドアのすき間から侵入する冷気をタオルで阻止する。そんなんで風邪を引いてしまった。発熱はないが、鼻が極度に詰まって息苦しい状態で帰り便に搭乗。上空でする「息抜き」が出来ず、次第に耳内部に激痛。指を突っ込むと痛みが柔らぐが・・・その内、耳から少々の出血。スチュアデス呼ぶも対応出来ず。我慢して降り立った南京空港で旅を止めようと添乗員と地上係員に申し出るが、団体チケットでは、勝手な行動できぬと・・・一点張り。その後、脱脂綿をもらい耳に突っ込み、我慢して大連へ帰った。
 
 
・・・空港で思い出話⑬
🇺🇸 ワシントン空港。24年前、起業して数年後、念願のマンションを購入。その時の思い出。購入前、モデルハウス見学して、価格と見合わせて6階の部屋を申し込む。当時、人気で全室抽選。その抽選日、私は、機上の人であった。向かう先は米国ワシントン空港。当時、ジャンボジェットには、カードで支払える機内電話があった。抽選日に立ち会えぬワタシ、立会を地元友人に依頼した。抽選の時刻、機内から友人に電話。「希望の部屋は落選。310号室なら当選確率高そうだけど・・・どうする❓」って価格も調べず「その部屋にして・・・」と指示。電話を切る。そしてワシントン空港のターミナルに入国して即、再度、友人に電話「おめでとう買えたよ❗」って「ところで幾ら❓」そんな会話した思い出の空港。今の部屋は、310号室。
 
 
・・・空港で思い出話⑭
🇯🇵 成田空港。人が到着すると当たり前に出てくる預け荷物だが、時にして出てこぬ時がある。グルグル廻るカバンテーブル。最優先で出てくるビジネス客は、早々にカバンを手にして外へ出られるが、我格安航空券人、カバンテーブルで順番を待つ。時には、真っ先に出てくることもあるが、一番最後の経験もある。一番最後のカバンが他人の手に渡っても、我がカバンが出ぬ時、数度ある。その瞬間、地上係員がテーブル脇に立ってれば交渉も簡単だが、到着便が混み合う時間帯、係員が不在の時、さぁどうする。あの広い手荷物カウンター場のどこに搭乗飛行機会社の窓口がある❓ 運良く係員や窓口で交渉できても即刻、手荷物は帰らない。ほぼ翌日、もしくは数日後、自宅に届く。終わって外に出ればリムジンバスの時刻も遠に過ぎた時間。寂しいモノである。
 
 
 
まぁまぁ書き出せば切り無く脳裡に浮かんでくるが、今回は、この辺りでオワリ。
 
 
では・・・再見❗